バート・ルッテン教授講演会「Epigenetic Epidemiology and Translational Neuroscience」報告
相馬 尚之

バート・ルッテン教授講演会「Epigenetic Epidemiology and Translational Neuroscience」報告 相馬 尚之
日時
2017年1月27日(金)15:00〜17:00
場所
東京大学駒場Iキャンパス ファカルティーハウスセミナー室小
講演者
Professor Bart P.F. Rutten(オランダ マーストリヒト大学)
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト3「科学技術と共生社会」

今回の講演会では、オランダのマーストリヒト大学教授Bart Rutten教授に、エピジェネティクスと精神疾患の関係についてお話しいただいた。エピジェネティクスとは、DNAのヒストン修飾やメチル化により、塩基配列の変化を伴わずにその発現が変化することを研究する生物学の領域である。講演では、戦争体験等の強いストレスにさらされPTSDなどの精神疾患を発症した患者ならびにその子孫において、どのような変化が生じているのかに関する最新の成果の紹介とともに、エピジェネティクスという学問の包含する危険に対して注意すべきことも明らかにしていただいた。

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第一に、エピジェネティクスと精神疾患の関係について述べたい。例えば、アフガニスタンに配属される兵士たちから血液を採取し、戦闘というトラウマ的なストレスにさらされた場合やそれを受けてのPTSD発症の有無といった、兵士らの様々な反応について調査した結果、酵素DUSP22やNINJ2に関して発現量の増大が見られたほか、いくつかのDMR(differentially methylated region=メチル化可変領域)においても影響が確認された。加えて、兵士らが過剰なストレスにさらされ精神疾患を発症した場合のみならず、発症しなかった場合でも、これらの指標に関して変化が見られた。このことから、強いストレスによりエピジェネティックな変化が生じ、遺伝子の発現量が増減することに伴い、脳の働きにも影響が及び、さらに精神疾患が引き起こされることが推察されるという。

第二に取り上げられたのは、このような変化が世代を超えて影響を及ぼす可能性である。例えば、子供時代に親を亡くした経験のある人々について、彼らの出産した子供たちを調査した結果、通常より早産や体重の軽い子供の割合が高いことが指摘された。これは、幼少期のトラウマ的体験が、次の世代へと引き継がれることを示唆している。

あるいは、ホロコーストを生き延びたユダヤ人の家系の研究が紹介された。ホロコーストの生存者においては、虐殺を経験していない人々よりも、ストレスに反応すると考えられるタンパク質FKBP5をコードする遺伝子がメチル化されている割合が非常に高く、PTSDの発症率も高いことが示された。さらに彼らの子供の代においては、生存者の子供たちの方がメチル化率が顕著に低く、鬱や不安を訴える割合が高いことが明らかにされた。このことから、親の代における強制収容所体験が、親世代のみならず子供たちの世代においてもエピジェネティックな変化を引き起こし、さらには精神疾患へとつながっているという結論が導かれよう。

しかしながら、Rutten教授は世代間及び超世代的な研究に関しては、遺伝子による決定論に陥り社会的に悪影響を及ぼす危険があることも指摘され、エピジェネティクスが大きな成果をもたらしていることを認めつつも、この新たな生物学が単なる関連にとどまらず正確な因果関係を明らかにし、疾患の研究に有益な分子の姿を確立することの重要性を主張されていた。

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質疑応答においてもこの「エピジェネティックな変化が遺伝するか」という点に関して懸念が表明された。自分の行動が子孫の身体及び精神に対しても影響するのであれば、個人の行為は自分一人の問題にとどまらず、これまでとは異なった責任を求められる可能性が生じる。まだ存在してさえいない将来の子孫への加害的行為として、現在の自堕落を批判することは、果たして正当なのだろうか。

また遺伝可能性の問題は、いわゆる「氏か育ちか」の問題と結びついている。人間に対する遺伝と環境の影響力の大きさは、多くの人々の間で依然として大きな関心を集めており、エピジェネティクスによって精神疾患の遺伝が証明されれば、それは濫用された場合に社会的な差別や排除につながる危険さえはらんでいる。このように、エピジェネティクスの成果が潜在的に新たな優生学の萌芽へと通じていることには十分に注意せねばならない。

では、エピジェネティクスの優生学への頽廃を防ぐためにはどうすればいいのであろうか。そこで考えられることの一つに、科学のつながりを認識することがある。Rutten教授がマーストリヒト大学の紹介において強調していたことに、現在の研究がオランダやドイツなど西欧を中心に10校の大学を横断して行われていた点がある。多くの科学者が協力して研究にあたることは、研究を加速させるのみならず、多様な背景を持った学者たちがプロジェクトに取り組む機会を提供している。エピジェネティクスは、専門の生物学者に限らず、様々な研究者の協調によって、より大きな成果をもたらすことが可能となるであろう。

もう一つのつながりは、地理的なものではなく歴史的なものである。Rutten教授は講演のスライドにおいて獲得形質の遺伝を理論化した18世紀の博物学者ジャン・バティスト・ラマルクを二回にわたり引用し、また質疑の際にラマルクの思想についてどう思うかと問われた際に、「ラマルクは私たちの先祖である。」と答えていた。Rutten教授は、ダーウィンやメンデル以来の遺伝学の成果を認めると同時に、エピジェネティクスの長い伝統を認識している。遺伝学がその発展の歴史において、しばしば差別主義やホロコーストの正当化に加担していた事実に向き合うことは、将来に新たな生物学の発見を悪意ある手に奪われないために重要なことである。

エピジェネティクスは、遺伝子の働きや発現の仕組み、その遺伝可能性などについて更なる科学的な解明が期待されると同時に、社会的な影響についても懸念すべき分野の一つである。その最先端で活躍する教授から研究内容を直接紹介いただくとともに、そのような領域にかかわる一人の科学者としての様々な問題意識や使命感をうかがうことができたのは、非常に貴重な機会となった。

報告日:2017年2月20日