ジャン=フィリップ・ピエロン先生講演会「現代における家族の変容とその哲学的諸問題」報告
中村 彩

ジャン=フィリップ・ピエロン先生講演会「現代における家族の変容とその哲学的諸問題」報告 中村 彩
日時
2016年6月14日(金)6限(18:45-20:30)
場所
駒場キャンパス18号館4階コラボレーション・ルーム3
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト2「共生のプラクシス──市民社会と地域という思想」
協力
エラスムス・ムンドゥス・ユーロフィロソフィ法政プログラム

2016年6月14日、フランスのリヨン第3大学哲学科教授でケアの哲学を専門とするジャン=フィリップ・ピエロン氏の講演「家族は歴史である──現代における家族の変容の哲学的諸問題」が開催された。以下はその報告である。

講演では、内容に入る前にまず議論の枠組みについて簡単な説明がなされた。それによれば、これまで家族を考える際の主だった哲学的な枠組みは3つあった。すなわち正義の視点から家族を考える政治哲学、家族を人間同士の相互承認の場と捉えるフランクフルト派の批判理論哲学、そして家父長制・男性支配の場としての家族を考えるジェンダー論である。しかしここでピエロン氏が提案するのは、家族を「世俗化の哲学」において捉えることである。キリスト教──ここで念頭に置かれているのはフランスの文脈であるわけだが──が力を失ってしまった時代において、家族にまつわる習俗はどのように世俗化していくべきなのか。世俗化の結果、審判者としての神がいなくなってしまった現代社会では、人類学、社会学や精神分析といった人文社会諸科学の専門知が象徴的秩序の保証人として機能するようになったが、家族をめぐる様々な問題は、この世俗化という問題の一環としてどのように考えうるのか。

本講演では以上のような枠組みの中で、家族とは何か、「家族をなす[faire famille]」とはどういうことなのかが論じられた。その中心的な主張は講演タイトルにも掲げられている通り、家族は歴史であるということ、すなわち家族は単にアイデンティティなのではなく、相互的な承認の力動的なプロセスであり、そのプロセスにおける個人的および集団的アイデンティティは「家系による歓待」を基盤としている、ということである。以下に内容の簡単な要約を試みる。

家族について考察するにあたってまず認めなければならないのは、その時間が構成員である人間の誕生と死によって分節化されているということ、それにともなう世代の継起の問題が常にあるということである。このことをめぐっては、一方では「家族を所与のものとする自然主義的立場」があり、他方でそれに対抗するケア理論やジェンダー理論からは「家族的現実は獲得されるものであるとする構築主義的立場」が主張されてきた。もちろん、家族の領域における家父長的な男性支配の形態からの解放のための配慮は必要である。しかしそのことは、家族の時間性には「悠久の時の流れや原初的なものに結びついた問題」があることを認めること、家族という場における人々の誕生と死の問題を考えることを妨げはしないはずだ。すなわち家族は、生殖などの生物学的要求と社会的秩序による制約というふたつの次元の妥協の産物と考えられる。そのようなものとしての家族はめまいを感じさせるような生命の力──家系の無限性、宇宙的時間──をはらんでいるが、それは同時に形而上学的装置として機能しており個人的・社会的な次元と結びついている。そこにおいて子の生命はエコノミー的な交換ではなく贈与であり、繰り返し与え続けなければならないものである。このような家族はプロセスであり、冒険であり、創造的な開放性への賭けであり、伝統的な家族という保守的な概念とは対置される。それは可傷性という試練に応答するための創造的な空間であり、信頼関係の中で成り立つものである。そこにおける世代間の継承は、機械的なプロセスにすぎない「移転」とは異なる歴史的な力動的プロセスであり、継承されるものは常に変動し新たな価値を創造する。

以上のような議論が本講演ではレヴィ=ストロース、アーレント、ウィニコット等の思想家を引きつつ展開された。質疑応答では、フランスにおける反生物学主義的な家族観はナチズムの反省として考えられないか、文脈の異なる日本では議論も異なってくるのではないか、といった点や、現代の生殖医療技術などについて議論が交わされた。

若干の個人的感想を述べるならば、家族に必要なのは今まで通りの家族のあり方を死守しようとする保守主義ではなく、ある種の創造性であり今までのことを「忘れる」能力であるというのは確かにその通りだと思う。また生命のもつ精神的な部分──「生に浸透する奇妙で威嚇的な力」としての「生命力」、生命の神秘と呼ばれてきたような部分──を完全に無視して家族を考えることはできない、という指摘は興味深いものだった。昔は生命の神秘に関する言説を宗教が提供していたが、世俗化してそれに代わるものをもたない社会において、宗教に戻ることはできないしその必要もないかもしれないが、家族に関する言説が生命技術や法律といったあまりにテクニカルな側面にばかり集中してしまっていることに対し、それだけでは解決できないことがあるという問題意識をもつことは重要であろう。フェミニズムやジェンダー研究で主張されるような家父長的言説からの解放に配慮する必要性は認めつつも、歴史の悠久の時の流れの中にあるものとして家族の存在論的な側面を考える、という視点は新鮮だった。

とはいうものの、上述した議論は日本の文脈ではフランスとは別の意味合いを帯びてくるだろう。当然ながら日本とフランスでは家族をめぐる語彙も事情も大きく異なるからだ。今回報告者は講演原稿の翻訳を担当したが、日本語とフランス語における家族をめぐる言語レベルでの様々な違いを強く実感した。簡単な一例を挙げるならば、フランス語で家系[généalogie]という語は「家系」のほかに「起源/世代/生殖/生成」といった言葉と語源的に結びついており、本講演での議論もそのような言葉のもつ語源的な広がりを前提として進められたわけだが、もちろん日本語ではそうしたつながりは見えない。「家族」、「結婚」、「子をなすこと」といったひとつひとつの語がもつ意味合いも異なる。また質疑応答の際にも指摘されたように、フランスではある種の根強い反生物学主義があるからこそもう一度家族の生命力について考える必要性を訴えることも可能になるのかもしれないが、はたして全く異なる歴史的・宗教的文脈にある今の日本で、あるいは日本語で、同じことが言えるだろうか。日本語で家族というと血縁でつながった親族関係という意味合いがあまりに強く、家系的な歓待を称賛し家族的な生命力を論じたとしたらそれは血縁を重視する自然主義的な保守主義に容易に結びついてしまうようにも思われる。

ある特定の地域・言語で生み出された理論は、別の文化やコンテクストに置かれたときにどのような意味合いをもちうるのか。言語間・文化間の往復によって絶えず考え続けなければならない問題である。

ihs_r_2_160614_prof_pierron_01.jpg
ihs_r_2_160614_prof_pierron_02.jpg

報告日:2016年6月30日