ボリス・グロイス教授講演:"The Discontent with Art: Fluidity and Preservation"報告書
半田 ゆり

ボリス・グロイス教授講演:"The Discontent with Art: Fluidity and Preservation"報告書 半田 ゆり
日時
2017年1月13日(金)17:00 - 19:00
場所
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム2
講演者
Professor Boris Groys (New York University)
使用言語
英語
主催
東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム「多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)」教育プロジェクト1「生命のかたち」

2017年1月13日(金)、IHSプロジェクト1「生命のかたち」主催で、現在はニューヨーク大学で教鞭をとるボリス・グロイス氏の講演会が開催された。近年はもっぱら現代アートを専門とする哲学者・美術理論家・批評家であるグロイス氏は、『全体芸術様式スターリン』(1992)が日本語に訳されているほか、今回の来日の契機ともなった『アート・パワー』(2008)の日本語訳の出版を予定している。

講演会に先立って、表象文化論コースに所属する学生とグロイス氏のあいだで研究相談の機会が設けられた。筆者もこれに参加し、グロイス氏との意見交換を行った。相談の内容は日本写真史にかかわるもので、グロイス氏の専門分野と必ずしも一致しているわけではなかったが、氏の領域横断的な広い知識と、少人数のくだけた雰囲気の中、示唆に富んだ学びを得た。グロイス氏は筆者の初歩的な質問にも気さくに応答された。貴重な機会を頂いたことに感謝する。

今回の英語による講演は"The Discontent with Art: Fluidity and Preservation"と題され、主に今日のアートとテクノロジーの関係性が取りあげられた。グロイス氏はハイデガーによるテクノロジー論から出発し、マリネッティに代表されるアヴァンギャルドの芸術理論やリオタールの『非人間的なもの──時間についての講話』などを参照しつつ、インターネットが身近な存在となった今日におけるアートとは何かを多角的な視点から考察した。

ハイデガーによれば、テクノロジーの最終目的は人間を偶然から解放し、「保存」することにある。しかしながら、人間を道具としてもの化するこのような動きにハイデガーは警鐘を鳴らす。翻って、美術館に保存・展示・鑑賞されるアート作品は、使用され消滅する消費財(例:飲食物)とは異なる「もの」の地位を占めている。こうした観点から眺めるとき、美術館もまた、もの化にかかわるテクノロジーのひとつに数えられる。

このもの化、すなわちアート作品と化すことは、美術館での扱いを見れば明らかなように、暴力からの庇護を意味する。グロイス氏は、こうしたアート作品に対する庇護の態度の背景には、人体に対する社会的・政治的庇護の思想があるとする。ヒューマニズムが最も大きな影響力をもった19世紀において、人体は自然という最も偉大な芸術家によって生み出された、最上の美の形であり、その限りにおいて人間は庇護の対象とされた。

コジェーヴが「真に人間的な欲望」として定義した、欲望されたいという欲望、すなわち他者の欲望の欲望という概念を引きながら、この他者からの認識への欲望が、今日ではインターネット上に現れていることをグロイス氏は指摘する。それは、アート作品が芸術家の第二の身体として不朽不滅の存在と化すことに見出されるような、人工的身体への自己審美化の動きである。インターネット上に散らばった、われわれの代理の身体となったわれわれについての何らかの情報──履歴、政治的信条、自画像など──は、もはやインターネットショッピングなどのほかの活動とは区別されることもなく、誰でもアクセス可能なものとなっている。このような意味で、インターネット上の自己審美化というアートは、すでに日常のものとなっている。グロイス氏によれば、いまやあらゆる人が芸術家であると言えるという。

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しかし、保存・保管を第一とする限り、アートは根深く保守的なものにとどまっている。グロイス氏によれば、ターボ資本主義や新自由主義、あるいは近代技術のダイナミクスに対する抵抗の中でこそ、アートは政治的に能動的な存在となるべきなのだ。

保存とは対極に位置する破壊や終末論といったカタストロフは、初期のアヴァンギャルド・アートによって語られたものでもある。ベンヤミンが鋭く指摘したように、マリネッティら未来派が掲げたこのカタストロフや死の審美化は、ファシズムと深い関係にあった。グロイス氏はしかし、この破壊が同時に、何らかの規則からの解放をも意味するとする。たとえばマレーヴィチにおいてそれは、伝統的な芸術様式の破壊によって明らかにされる芸術の要素──純粋な色の発見であった。

こうしたアヴァンギャルドの実践が、今日のメディア世界の思考のよすがとなる。あらゆるカタストロフを生き延びる物質。グロイス氏は、リオタールの著書『非人間的なもの──時間についての講話』(1988)に収められた論文「身体なしで思考することは可能か?」(1987)を参照しつつ、議論を展開していった。リオタールが模索する、思考と非有機的なもの・非人間的なもの・非―生命の支持体との統一は、破壊によって自由となったものたちのあいだで新たに開かれる展望のひとつに数えられるかもしれない。

人体の形とは違って、インターネット上に広がっているのは、もはや人間の眼には不可視な仮想の統一をなす、ばらばらの情報群である。それらの情報群を分析しうるのは、グーグルの検索プログラムのようなアルゴリズムである。そこには、機械によって認識される機械という構図が現れる。これこそが、インターネットが人口に膾炙した現代において、生起している状況なのである。

アート作品をめぐって、今日的な状況を的確に把握した上で、芸術理論の歴史的な展開を紐解いたグロイス氏の論は、参加者のあいだにより深い思考をもたらしたように思われる。

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