夏期読書会「人種差別について」報告
亀有 碧・田邊 裕子

日時
2015年8月11日(火) - 9月22日(火)
場所
東京大学駒場キャンパス
参加者
石田、打越文弥、亀有碧、木原盾、國重莉奈、金燕、高村夏生、田邊裕子、北條新之介、宮田晃碩

概要

本読書会は、多文化共生にかかわる知識を分野横断的に培うことと、個々の専門分野から同じテーマについてどのような視点からどのような取り組みを創出できるのかを明確化することで、分野ごとの特異性を共有することを目標に開かれた、IHS生による自主的な取り組みである。今回は「人種差別」をテーマに、2時間ずつ全6回の読書会を開き、各回に社会学、細胞生物学、哲学、文学といった分野ごとの視点を持たせた。まず発表担当者があらかじめ共有した読書課題や自らの専門的アプローチについて説明し、その視点から可能になる今後の企画について提案した後、司会者による進行によって質疑応答と議論を行った。本報告書では、最初に各回の内容をごく簡単にまとめた後に、全体についての考察を記す。

読書会日程と発表担当者

8月11日(火)担当者:北條新之介(社会学/地域研究)
8月20日(木)担当者:高村夏生、國重莉奈(細胞生物学)
8月27日(木)担当者:金燕(社会学/政策論)
9月4日(金)担当者:宮田晃碩(哲学)、石田(倫理学)
9月12日(土)担当者:打越文弥、木原盾(社会学)
9月22日(火)担当者:田邊裕子(演劇論)、亀有碧(文学)

各回概要

8月11日(火)

担当者:北條新之助(社会学/地域研究)

参考文献:
加賀美常美代、工藤和宏、坪井健、横田雅弘、編著 『多文化社会の偏見・差別—形成のメカニズムと低減のための教育』(明石書店、2012)

中国研究を専門とする北條は、日中の国民感情の問題を念頭に置き、「カテゴリー化」という認識原理による「偏見」が差別意識を生むことに着眼した。その上で、その低減のための「接触仮説」(対等性や親密性などの諸条件を満たした接触のみが低減効果をもつという仮説)や「ヒューマンライブラリー」(マイノリティの人物が読者たる来訪者に自らの体験を語る取り組み)を紹介した。質疑では、「偏見」をどのように定義し計りうるのかと議論された。また、「ヒューマンライブラリー」については、そこで読者の権力性が明示されることでむしろ、対等に話しうるというマジョリティの虚構が脱臼させられるのではないかとも指摘された。

8月20日(木)

担当者:高村夏生、國重莉奈(細胞生物学)

参考文献:

  • Stephen Jay Gould著、鈴木・森脇訳『人間の測り間違い:差別の科学史(全2巻)(河出書房 新社、2008年)
  • 麻生一枝『科学でわかる男と女になるしくみ:ヒトの性は、性染色体だけでは決まらない』(SB クリエイティブ、2011年)
  • サイモン・バロン=コーエン著、三宅真砂子訳『共感する女脳、システム化する男脳』(NHK出版、2005年)
  • 木村涼子ら編著『よくわかるジェンダー・スタディーズ:人文社会科学から自然科学まで』(ミネルヴァ書房、2013年)

科学の観点からは、間違った科学が社会に広がった一例としての人種に関する研究史と、正しい科学が、諸条件の捨象によって間違って社会に伝わっている一例としての性差研究について発表された。前者では、アガシやモートンら、人種の優劣を生物学的に求めようとした科学者たちが結果を操作したり偏った解釈をしたりした実例が示され、分割・図式化・単純化に則る科学的思考の特異性と限界が指摘された。後者は、性差をもたらすホルモンの研究が、平均を示すにすぎないという点に留意しながら発展しつつあるという現状が紹介され、そうした研究結果が世間に伝播される際の統計処理の仕方等の留意点や、科学と社会が接する際のディスコミュニケーションについて議論された。

8月27日(木)

担当者:金燕(社会学/政策論)

参考文献: 本田雅和/風砂子・デアンジェリス『環境レイシズム―アメリカ「がん回廊」を行く―』(解放出版社、2000)

金は1980年代ごろから提起されたアメリカにおける「環境レイシズム」の問題を取り上げた。それは、ごみ処分場などの迷惑施設が多い地区と特定人種の居住地域が相関しているという問題である。しばしば差別的な意図を持たずとも市場原理に則るだけで起りうるこの環境レイシズムを、「意図にかかわらず結果が不均衡ならば差別である」と定義することによって打開せんとする取り組みが活発化している。その一つに、多様な選択肢の中から住民全体で意思決定していくことを目指す「討議型民主主義」がある。質疑では、意思決定の過程の是正と、結果として表れる不均衡状態の是正のどちらをどの程度重視すべきなのかという問題提起がなされたり、実際の討議方法について議論されたりした。

9月4日(金)

担当者:宮田晃碩(哲学)、石田(倫理学)

参考文献:
奥谷浩一「ハイデガーと反ユダヤ主義」『札幌学院大学人文学会紀要』85号(2009)、pp.123‐156 Sen, A. The Idea of Justice, Harvard University Press, 2009. (池本幸生訳『正義のアイデア』明石書店、2011)

宮田は、哲学者・マルティン・ハイデガーと反ユダヤ主義のかかわりという歴史的問題を扱った。宮田によれば、ハイデガーの反ユダヤ主義の程度にまつわる歴史的問題よりも、戦後におけるハイデガーの政治的沈黙こそを、自らを投企された時代状況への引き受けを言明していないという点で、ハイデガー哲学の観点から批判できるのではないかという。石田は、人権とは公共的精査に担保される倫理的宣言であり、その保護は強制力をもたない不完全義務であるというセンの議論を基に、このハイデガーの責任をいかに問えるのかと説いた。そこでは、自由意思に付随するものとしての「責任」と応答可能性としての「責任」の差異などについて議論された。

9月12日(土)

担当者:打越文弥、木原盾(社会学)

参考文献:Breton, R. (1964). “Institutional completeness of ethnic minorities and the personal relationships with immigrants”. American Journal of Sociology, 17(2), 193-205.

打越と木原は、移民のホスト社会での社会関係の構築にどの程度エスニックコミュニティ内でのInstitutional Completenessの強さが関与しているかを検討した論文を紹介した。論文の中での「Insitutional Completeness」とは、移住先での同エスニックコミュニティ内での様々な制度の成り立ち具合のことであり、制度の具体例としてエスニックチャーチやエスニック新聞があげられる。エスニックコミュニティ内での「Institutional Completeness」が高ければ高いほど、移民は移住先で自らの人間関係を同じエスニシティの人間と結ぶ傾向にあることがこの論文により実証されている。本論文は社会学におけるソーシャルキャピタル論の先駆けともされており、参加者はコミュニティの紐帯をそれ自体独立的な資本と捉える社会学的視点に触れることができた。質疑応答では、論文に関することに留まらず、生物学的な言語で決定づけられる人種(「race」)と、出自に関する神話、宗教、言語等によって定義づけられる民族(「ethnicity」)の概念区分や、近年の諸外国における移民統合政策などについて活発に議論がなされた。

9月22日(火)

担当者:田邊裕子(演劇論)、亀有碧(文学)

参考文献:

  • 中上健次『紀州—木の国、根の国物語』(角川文庫、2009)
  • 中上健次 著、柄谷行人・絓秀実 編『中上健次発言集成3』(第三文明社、1996)
  • 林立騎「芸術の公共性を巡って」、川俣正『川俣正・東京インプログレス-隅田川からの眺め』(美術出版社、2014)

亀有は、作家・中上健次による被差別部落に対する言及を題材に、生物学的には証明されえない「人種」の違いを仮構する心理的機構と文学の典型がもつ接点としての美的な二項対立構造と、芸術によってその構造を無化するべく中上が取り組んだ文学について論じた。田邊は、芸術の公共性をめぐる議論を出発点に、異質で多数的な「私」の声が交差する公空間を創造する演劇的取り組みの、多文化共生社会における必要性を論じた。田邊によれば、そうした演劇的空間でこそマイノリティ的「私」の「私たち」=公への接続や、マジョリティ的「私たち」の問い直しが可能になる。その後、芸術家及び研究者の政治や社会に対するかかわり方などについて議論された。

考察

今回の読書会では、様々な分野のまったく異なる視点から、「人種差別」という問題を立脚点にして「差別」の多面性に臨むことができた。人種差別の心理的メカニズムを「偏見」によって説くアプローチを紹介した北條、そうした心理によって自然科学が誤って用いられる事例を挙げた高村・國重は共に、諸条件を捨象し成立する二項対立的配置によって他なるものを排斥せしめんとした近代の人種差別構造を明らかにしたと言えるだろう。それは具体的には白/黒、西洋/東洋、あるいは男性/女性といった対立軸によって維持されてきた。亀有が指摘した、差別構造と文学の定型構造の親縁関係と、「脱臼‐定型」としての中上健次文学もまた、そうした枠組みの中でこそ機能している。

一方で、金が取り上げた「環境レイシズム」という問題は、そうした明文化された対立構造が支持されえない現代における、新たな差別の現れを示している。すなわちそこで差別は、アントニオ・ネグリ、マイケル・ハートが説くように、「本性の違い」によってではなく「度合いの違い」、つまり「示差的包摂の結果」として現れるのである(アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『〈帝国〉―グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』、水嶋一憲ほか訳、以文社、2003年)。そこで今、新たに問われているのはこうしたグラデーションとしての差別的分布に対して、それをいかに是正すべきものとしてとらえ、さらにいかなる状態を是正されたものと認めるのかという非常に困難な問いである。それは打越・木原が直面している、社会的構造物としてのエスニシティを数えうる単位へと分類するという課題とも通底しているのではないだろうか。

また、差別行為の責任の所在をどこに求められるのかと説いた宮田・石田の両氏の発表は、差別の研究を、差別行為者の断罪のためではなく、今を生きる研究者の学問的探究における義務として課すことを示唆するものであった。田邊は、今回の読書会そのものが、多数の声の共存によって「私」なるものを「私たち」へとひらく場であると指摘し、そこにあるべき「共生」の姿を説いてくれたように思う。それらの指摘は、我々の今後に続く自主的活動の大きな推進力として機能していくことだろう。